稽古塾のはじまり

約20年前、大学の元教員だった石田が課外活動として居合道の研究会を立ち上げ、そのときの初期メンバーの1人が佐竹でした。
「武道とは研究である」というモードでの石田の独特な稽古スタイルに、学生たちもノリノリで付いていきました。その後、しばらくは別の道を歩みましたが、石田が研究・稽古団体を立ち上げるにあたり、佐竹がその理念に共感したことで、当稽古塾の設立に至りました。

石田と佐竹は師弟の関係ではありますが、共通の夢と目的に向かって対等に議論し合える共同研究者でもあります。そこで、当稽古塾の名称は二人の連名としました。
また、私たちならではのユニークでオリジナルな研究・稽古活動を実現するために、どの団体にも所属せず私塾の形態をとっています。

“稽古”ということばは、本来「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」という意味で、古い書物などを読んで学問することを意味していました。
当塾では、新陰流居合を研究・稽古するにあたり、新陰流兵法(剣術・杖術・抜刀勢法)や、新陰流居合の原形である制剛流居合についても、伝書を元に稽古しています。
そうすることで、新陰流居合の〈かたち〉の意味に対する理解を深めています。
居合の面白さ

石田 理永
私の実感として、居合は「半分武道」で「半分芸術」だと思っています。どちらに偏っても良くなくて、武道と芸術との間の絶妙なバランス感覚が肝になるところが、私にとっては居合の一番の魅力です。
「武道」の側面からは、敵の動きに対応するにあたっての、理にかなった〈かたち〉や無理のない身体の使い方をとことん追究できることがとても楽しいです。
居合の敵は仮想敵(自分で想定する敵)ですので、現実の敵と相対するときとは違って、敵の変則的な動きに応じる必要がありません。そのため、自分の理想通りの〈かたち〉や身体操作を完璧に表現できるという良さがあります。

「芸術」の側面からは、居合は自分の世界を作ることができるので、武道で自己表現をしている感覚がとても心地よいです。
その人の内面がすべて業(わざ)に表れるので、それは怖くもあり、また面白くもあります。武道として理にかなっていることが大事であるとともに、私は、居合とは自分の思いを〈かたち〉に乗せて抜くものだと思っています。

佐竹 彬
居合の面白さは、「独りでも稽古できること」だとよく言われます。では、独りだと何が面白いのでしょう。それは、「自分が想像した状況で体の使い方を稽古できること」だと思います。
居合とはもともと、日常を送っていて、不意に襲われたときに対処する技術を指していました。相手の仕掛けに対して、こちらの応じ方も変化します。相手との距離、相手の位置、自分は立っているのか座っているのか、などによっても変わってきます。

他人と組んで行う形稽古では、相手に合わせようという意識が働いてしまいがちです。その結果、自分の体の動きを感じにくくなります。その点、居合では想像の相手と向き合うので、体の理想的な使い方を追究しやすいのです。それが、独りでも稽古できる居合の面白さだと思います。
稽古の中で大切にしていること

石田 理永
人は技に付いて行くのではなく、人に付いて行くのだ
私は、日頃からこの考えを一番大切にしています。「技」の前に、まずは「人」です。技は人とセットですので、この人に付いて行きたいと思って貰える人にならない限り、たとえどんなに優れた技であったとしても次世代へは繋がりません。
絶対に戦争だけはすべきでない現代に、殺傷能力の高い危険物である「刀」をあえて使用して稽古する意味について、私たちは明確な答えを持つことが必須です。それなくして技の優劣ばかりに関心が行ってしまうことは、危険な考えに繋がりかねません。

居合は昔から「鞘の内」と言いまして、「最後まで抜かない教え」というのが私の理解です。刀を腰に差していても、周りを威嚇することによってではなく、周りがちょっかいを出しづらいオーラと言いますか、風格や威厳でもって刀を抜かずに解決する道です。稽古中はもちろんですが、普段の生活の中でも、ふとした瞬間の“佇まい“はとても大切ですね。

佐竹 彬
指導者が一方的に業(わざ)を伝えるのではなく、一緒に混ざって稽古することです。
もちろん、最初は一方通行で教え伝えることが多いでしょう。しかし、疑問に思うことがあればそれを声に出してもらい、一緒に考えていきたいと思っています。

新陰流では、「敵に随いて千変万化する」という表現が頻繁に用いられます。形は厳格に1つに定まっているのではなく、理合(業を成り立たせている仕組みのようなもの)の範囲内で変化があっても良いのです。
ですからたとえば、「こういった変化はどうか?」といった議論ができると、楽しく理解を深めていけると思います。